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中島春雄(ゴジラ)の訃報に合掌。死因や経歴、海外の反応をまとめ

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ゴジラ俳優としての活躍された中島春雄さんが死去したと情報がありました。

ここでは、中島春雄さんの死因や経歴と海外の反応などをまとめました。

中島春雄 プロフィール

http://variety.com/2017/film/news/godzilla-suit-haruo-nakajima-dead-dies-1202517648/

名前:中島春雄(なかじまはるお)
愛称:春ちゃん
生年月日:1929年1月1日(88歳)
出生地:山形県酒田市
身長:168cm
職業:元俳優、スーツアクター、スタントマン
活動期間:1947年-1973年
趣味・特技:水泳、潜水、スキューバ・ダイビング、柔道

中島春雄の訃報に合掌。死因は

おそらくこのツイートが中島春雄さんの訃報を報じた最初の情報でした。

日本映画の怪獣造形専門の彫刻家、特殊メイク師の若狭新一さんのツイート。
[tweet 894561542326198272 align='center' lang='ja']

 

8/7に亡くなられたのでしょうか。悲しみの声がネットに溢れることに。

[tweet 894649084862013440 align='center' lang='ja']

死因は?

なんとまだ公式メディアのニュースが出ていない状況で死因は特定されていませんでした。

過去の情報やWikipediaを見てみましたがそれらしき情報は見つかりません。

判明次第追記させて頂きます。

中島春雄の死去に対し海外の反応

さっそくニュースになっています。

[tweet 894652082158010369 align='center' lang='ja']

 
Rest in peace.(ご冥福をお祈りします)と追悼の意を示しています。

[tweet 894592181251391490 align='center' lang='ja']

 

中島春雄さんは海外でもゴジラ俳優としての知名度が非常に高く「ミスターゴジラ」の愛称で親しまれていました。

2011年(平成23年)には、アメリカ合衆国ロサンゼルス市より市民栄誉賞を受賞しています。

ゴジラの中の人中島春雄の経歴

1947年(昭和22年)、新聞広告を見て「映画俳優学校」という俳優養成所に応募し、東宝や新東宝などの映画撮影所に出入りするようになる。(18歳)

1949年(昭和24年)、黒澤明監督作品『野良犬』で映画に初出演するが、編集で出演シーンを全てカットされてしまった。幻のデビュー作。(20歳)

1950年(昭和25年)、俳優学校の講師からの誘いで東宝に入社。同期生には広瀬正一、丹波哲郎、高倉みゆきらがいる。役のつかない、いわゆる「大部屋俳優」となる。(21歳)
『七人の侍』などで斬られ役を多くこなしていました。

1953年(昭和28年)、『太平洋の鷲』での攻撃機航空兵役で、日本で初めて身体に火をつけてのファイヤースタントを演じる。(24歳)

1954年(昭和29年)、日本初の特撮怪獣映画『ゴジラ』で、主役の大怪獣ゴジラの中島曰く「ぬいぐるみ役者(スーツアクター)」を務める。(25歳)
(のちに中島春雄さんはこの起用について、『太平洋の鷲』のファイヤースタントを見た監督の本多猪四郎に褒められたことがきっかけではないかと述懐している)。

以後18年間にわたり、ゴジラシリーズでゴジラを演じた「ゴジラ俳優」として有名になる。(ゴジラ以外の怪獣映画でも、主役の怪獣役を演じる。)

1956年(昭和31年)、『空の大怪獣ラドン』でラドン役を演じ、日本初の本格的なワイヤーアクションを演じる。(27歳)

1965年(昭和40年)、円谷プロダクション初のテレビ特撮作品『ウルトラQ』で怪獣「ゴメス」役を演じる。(36歳)

1971年(昭和46年)、東宝から専属契約解除を言い渡される。(42歳)

1972年(昭和47年)、特撮スタッフからたっての願いを受けて『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』でゴジラを演じる。この作品を最後に、ゴジラのぬいぐるみ役者を引退する。(43歳)

 

中島春雄さんはゴジラを演じるにあたってリアルな動物の動きを研究するため上野動物園に毎日通いました。

「エテ公は参考にならなかったが、象や熊は非常に参考になった」

と語っています。

そして、編み出したゴジラの動きとは、

「脇を開かず、つま先を蹴り上げて、足の裏を見せないよう歩くこと」

でした。

 

当初は複数人でかわるがわるゴジラを演じたが、のちに作るスーツも中島春雄さんの体格に合わせたオーダーメイド仕様になっていきます。

それは、『ゴジラの逆襲』から立ち回りを考えた中島春雄さんの要求によって始まりました。

以降、怪獣を作るスタッフと意見を交換しあい一緒にスーツを作り上げていきました。

 

円谷英二監督からは、全幅の信頼を獲得していて、怪獣同士の格闘の立ち回りは中島春雄さんが考え一切口出ししなかったとか。

 

スタジオでは照明の暑さと、100-150kgもある着ぐるみで汗だくになりながら演じたそうです。

2017年のインタビューでは、

「一生懸命やっていましたよ」

と中島春雄さんは振り返っていました。